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認知症の方への接し方

今回は認知症の方への接し方について。
以前から疑問に思っていた事ではあるのですが、認知症の方は自覚や自意識はあるのでしょうか?
偶然ですが、その疑問を解消する事が出来たのでそれについてまとめてみようと思います。

目次

認知症の自覚はあるのだろうか

以前から気になっていた認知症の方の自覚についてですが、どうやら自覚はしているらしいということ。
そして自意識についてもどうやら存在しているようです。
曖昧な表現になっているのは、私が実際にそう感じたとか、認知症の方と関わることで確証を得た事ではない為で、もしこの表現や、この先の文章を嫌味な言い回しに感じる方がいたとしてもそういった偏見はありませんのでご理解いただきたく、予め断っておきます。

なぜ疑問だったのか

さて、私が前述のような疑問をもっていたのは、その症状が認知機能にかかわるものということは知っていたためです。認知症の方は食事をした事を忘れていくらでも食べてしまう、とか、家族の顔や家の場所もわからなくなってしまう、と言った、断片的な知識しかもっていなかった為です。
食事をした事を忘れてもお腹が減っていなければ無理に食べることはないはずだし、満腹中枢は食事をした事を覚えているかどうかには関係していないはずです。また、家族の顔を忘れてしまって、家の場所もわからない状態で自分がどこの誰であるかと言った自意識は保てるものなのかと考えていたわけです。

認知症の方のよくある行動と症状との関係

では自覚があり、自意識もあるのであれば、認知症の方によくみられる行動は自発的なものなのか?
私は、失礼ながら自覚や自意識が薄れることによって感情的になったり、徘徊したりするのだろうと思っていました。
けれど、今回、自覚や自意識があるからこその行動であると知った時、同じ行動の解釈をするうえで真逆の対応が必要である事を知る事が出来ました。

自我があるということ

自覚、自意識がある事をここでは自我があると表現することにします。
自我があるということは、自分が認知機能に障害が出始めている事を自分でわかるということ。
想像してみると、それはとても恐ろしく、言い表せない不安な気持ちになります。
特に初期段階では認めたくない気持ちが圧倒的ではないかと思います。
そして、症状の進行に対して自我がある事が色々な行動につながっていると考えると、とても納得できるわけです。

感情的になる場合

では、具体的に自我と行動の関連について考えてみます。
認知症の方が怒りやすく、暴力的になるというのはよくある事ですが、それが自我を保っている事とどのような関係があるのでしょうか。
症状を自覚している、またはその疑念をもっている場合、外部からの指摘は不安の増長や不愉快な心境をもたらします。例えるなら、健常者でも自らの間違いを悔いているとき、外部からその間違いを執拗に指摘されるような場面に似ているかも知れません。間違いであるならそれを正せば良いだけで、反省するならばそれを次に生かすことも出来るでしょうが、認知症であることの自覚はそうはいかないでしょう。
不安だったとしても、初めの内はある程度受け流す事は出来るかも知れませんが、症状が徐々に進行していくと、それはある種の絶望感をもたらしてしまうことは想像できます。そして、外部からはそれとして指摘され続けるとしたら。
そうなると意に反して怒りをあらわにしてしまったり、ついつい暴力的な行動に出てしまうことも仕方のない事に思えます。

帰る場所がある事はわかっている

認知症の方が徘徊して迷子になるのもよく聞きます。
これについても自我がある事を前提に考えるならば、帰る場所がある事はわかっている、という状態。
帰る場所がある事はわかっているから帰りたい、帰ろうとする。けれど、その場所がわからない。だからと言って、そのままじっとしていると余計に不安になってくるでしょう。だから少しでも手がかりを求めて歩きまわる。それが外部からは徘徊しているように見えているのだとすれば?
確かに、徘徊であり、迷子には違いがないようにも思えますが、実際はいたずらに徘徊している訳でも道に迷ったわけでもない。ただただ助けを求めているといえるのではないでしょうか。帰る場所がある事も、それが何度も通った道であり、普通の状態であればわからなくなる事なんてありえない事を自覚している上での事であれば、その心境は想像以上の恐怖にさらされているのではないでしょうか。

周囲の対応はどうするべきか

その他にも自我に関連つけて考える事が出来る行動は沢山あるでしょうが、切りがないので割愛します。
ではこの事実を基に、周囲の人間はどのように接していくべきなのか?
まず何よりも念頭に置いておくべきなのは、相手は人間であるということ。
当たり前のようですが、重要です。
相手は認知症という症状を発症しただけの、一種の病人です。風邪をひいて寝込んでしまったのと同じです。
軽んじられれば悲しくもなれば、腹が立つこともあるのは健常者と同じく当然です。

安易に否定しない

次に、安易に否定しないようにする。
これは接し方としてよく聞く事ですが、自我がある事を前提に考えるとその大切さがよくわかります。否定するということは、当然に傷つく事ですし、否定する内容によっては症状を強く肯定することにつながり、相手の心を挫くことにつながります。そのショックで症状の進行が早まる可能性だってあります。

気長に寄り添う

そして、気長に、親身になって寄り添っていく。おそらくこれが一番大変だと思います。
ほんの数日、数カ月程度であれば、何とか我慢も出来るでしょう。けれど、現状では完治させる方法がないといわれる認知症の方を相手にするとなれば、それは亡くなるまでを意味します。
何年も、場合によっては10年以上になるかも知れません。
仕事や日々の生活を送りながら、その方のペースに合わせて寄り添っていくというのは非常に困難な事です。

今後の展開

では、身近な人が認知症になってしまった場合、すべて諦めなければいけないのでしょうか?
時には自分の感情を押し殺し、日々の生活を犠牲にし、暴言を吐かれたり、暴力を振るわれる事もあるでしょう。
そのすべてを介護人にもとめるのはあまりにも残酷です。
そこで、認知症に関する医学的な進捗情報についても少し触れておきたいと思います。

症状の進行を遅らせることは出来る

これは特に新しい話ではなく、認知症は完治は無理でもその進行を遅らせる、緩やかにすることが出来る。というのは関係者でなくとも知っている事と思います。
具体的には、過度なストレスを避け、脳へ適度な刺激を与え、そして適度な運動をする。
特に脳への刺激は、パズルゲームや趣味、人との会話や、動植物の世話など、楽しく取り組む事が出来る方法がいくらでもありますので、介護する方も一緒に楽しめるものを考えるとよいですよね。
他にも、投薬での対処もあるようです。
これは直接関係していない場合は少し馴染みがないかも知れませんが、身近な人に認知症の兆候が見られたならば、出来るだけ早く医師へ相談するようにしてください。

完治へ向けての研究は進んでいる!

これは朗報と言わざるを得ないです。
認知症の研究は日々確実に進んでいるようです。
私には難しすぎてよくわかりませんが、認知症を患うメカニズムの解明も進んでいて、近い将来、完治可能なものになるかも知れないとの事。
とは言え、まだまだ研究段階で課題も多くあるのも事実らしいので、流石に今日、明日といった訳ではないでしょうし、数年以上かかるとは思いますが…。

新しい認知症観

じつは、偶然に「新しい認知症観」という言葉を知ったのが今回の記事の出発点でした。
ネットで調べものをしていたら偶然目に留まった、その程度の事です。
で、物はついでにそのまま調べてみたところ、この新しい認知症観というのは、ごく最近、ここ1、2年ほどで注目され始めた取り組みのようです。
実際、令和5年に認知症に対する基本法が制定され、令和6年の12月、認知症施策推進基本計画というのが制定されているようです。この取り組みによって、今後、国から都道府県、そして市町村に至るまで、認知症の方やその介護にあたる方にも生活しやすい社会環境の整備が進められていくことになると思います。

後期高齢者社会にとって、これも必要不可欠な対策だと思いますし、介護疲れでの悲しい事件なども表面化してきた昨今、公共的な対策はもちろんですが、個人レベルでも理解を深めていきたいと思います。
介護にかかわらず、身近な社会問題に苦しむ方へささやかながら手助けしたり、お互いに支えあっていける、地域社会レベルでもそんな関係を築いていけるといいですね!

ではまた!

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